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■端唄■市丸、藤本二三吉、小唄勝太郎■小唄■

1 :昔の名無しで出ています:04/07/18 18:35 ID:aI06S+Fd
むかし芸者歌手という名でよばれた女性歌手が何人かいた。
本物の芸者から転じて、本職の歌い手になった人もあれば
形だけの芸者姿をした日本調歌手もあった。
本物の芸者から転じて歌手となった人の代表は
市丸、藤本二三吉、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などであり、
後者には神楽坂はん子、神楽坂浮子などがいる。

2 :さくらたん ◆VCSAKURAe. :04/07/18 18:41 ID:???
説明だけかよ

3 :蔦吉:04/07/18 20:53 ID:???
晩年まで美貌・美声を保った市丸姐さん、最高です。

他にも、
芸者→歌手 なら、「あゝそれなのに」の美ち奴(ビートたけしの師匠の姉)
形だけの芸者姿 なら、「船頭可愛や」の音丸に「トンコ節」の久保幸恵、結婚前の五月みどりなんかもいますね。

個人的に芸者歌手のCDは少ないと不満です。
(市丸・美ち奴はナシ。一番欲しいのに…。LPあるのか???)

4 :昔の名無しで出ています:04/07/19 05:21 ID:JymoItcP
市丸姐さん、以前からお名前だけは存じてはいたものの、
最近になってその偉大さに気づき、その矢先に
既に亡くなられていたことを知りました。。。残念。。。

もちろん、流行歌謡としてのヒット曲「三味線ブギ」は大好きですが、
市丸姐さん⇒根岸登喜子さんという伝承が無ければ、
江戸端唄は歴史からさっぱりと消え去ってしまっていたかもしれないことを考えると、
日本の流行唄の流れにおいて、非常に重要な位置を占めていたのだなぁと、
改めて思わずにはいられません。

ところで、市丸姐さんの唄声、様々なオムニバスで拝聴することができるようですが、
纏まったものとしては、じゃぽ音ネットにて「市丸・端唄選」として、
第一集から第十集まで発売されているそうですが、蔦吉様は既にお持ちでしょうかね。

それから、江戸端唄の再発見と紹介にご尽力された根岸登喜子さんの
音源も欲しいところです。。。
ちょいと神田神保町にでも探索しに行こうかしらん。


ところで、美ち奴さんには杉狂兒さんとの共演(と言ってもほんの一節だけですが…)
「うちの女房にゃ鬚がある」以外にどのような歌をお持ちだったのでしょうか?

5 :蔦吉:04/07/19 12:30 ID:???
>4様
それがね、いずれはと思っていながらまだ未購入です。
流行歌を歌う姐さんに興味があるので。
(この部分が下地であるのはわかってはいるんですけど)
そこを纏めたLP・CDが欲しいんですけど。

美ち奴・杉狂兒コンビは「細君三日天下」なんてのが比較的手に入りやすい
(CD化済)でしょう。あとはSP盤を探すほかないでしょうねえ…。
地方だとすぐに買いにいけるような場所はナシ、SP再生できるプレーヤーはナシ。
この人のLPも欲しいです…。

6 :昔の名無しで出ています:04/07/19 14:19 ID:+aQE8qui
市丸さんの端唄はビクターからCD化された音源が現在も市販されてます。
私が最後に拝見したのは市丸さんの卒寿を祝うパーティーが、平成8年に
永田町のキャピトル東急で開かれた時、関係者の代理で出席したときでした。
大変お元気そうでしたが、その翌年に亡くなられました。

根岸さんの音源は所属会社だったキングレコードから今も出ていますが、
単独のCDでは無く、他の方とのオムニバス形式になっています。
ちなみに市丸→根岸という伝承系譜ではないと思われます。

美ち奴さんは、「ああそれなのに」「皇国の母」「うちの女房・・・」
などが代表曲でしたが、戦後はヒットに恵まれず、浅草の芸者に戻って
お座敷に出ておられましたが、晩年は千葉の老人ホームで暮らして
おられましたが、亡くなられました。
葬式に関して、かつての所属会社であったテイチクは当初関知しないと
いうことでしたが、同じくテイチク所属だった塩まさる(代表曲:九段の母)
が「会社の礎を築いた歌手を何と考えるか!」と一喝し、会社主導で
結構盛大なお葬式をしてくれたそうです。



7 :昔の名無しで出ています:04/07/19 14:24 ID:+aQE8qui
芸者歌手で晩年までいろんな意味で豊かだったのは、ヒットが
出なくなってから古典邦楽に戻った方々でしょうね。
ニ三吉・市丸・勝太郎・小梅さんは端唄・小唄・民謡などの世界で
晩年まで大御所として活躍しました(小梅さんは引退しましたが)
はん子・美ち奴などは一時期随分とすさんだ生活を経験したようです。


8 :昔の名無しで出ています:04/07/19 16:16 ID:v2OG2N99
はんこさんは人気絶頂で芸能界を止めたのが昭和30年ごろ、その後どうされてたんでしょうか?いえね、
なくなられる10年程前かなTVの歌番組で唄っておられてけど声が余り出て無くって。

9 :蔦吉:04/07/19 20:45 ID:???
>6&7様

ずいぶんと詳しいですね。
美ち奴…確か神経を病んでいたとか、某歌手(名前失念)と結婚して酷い目にあった。
という話を聞いたことはあります。
葬式の話は初耳です。良い話です。
テイチクにはもっと美ち奴と楠木繁夫を評価して欲しいです。

神楽坂はん子は「なつかしの歌声」の映像は見たことがあるのですが。
引退は身元引受人の威光だったと聞いています。
(デビューするときもいろいろあったみたいです)
引退後はクラウンレコードのディレクターをしていたらしいですが…。
それも40年代の後半には辞めてしまっているようで…。
はん子姐さん、この後死ぬまで何していたんでしょうか?
テレ東の「昭和歌謡大全集」には出演したことはあるんですか?
ご存知でしたら教えてください。

10 :昔の名無しで出ています:04/07/20 03:42 ID:RLFCn7uw
ご近所の花季流(根岸登喜子氏直系の流派)端唄のお師匠さんから、
NHKから端唄研究の依頼を受けた登喜子氏は、不詳な唄があると、
市丸姐さんに教えを請うたとの情報をいただきました。
お互いご多忙な身でありながら、粋な交流だなぁと感じ入っていたのですが、
いま一度、確認をとってみましょうかね。

私、実は1なのですが、思っていた以上にレスがあり、喜びの至りであります。
都市流行歌の起源として、端唄はもっと評価が高まっても良いのではないかと思い、
思い切ってスレ立てを試みてみました。しかし、かつての江戸・東京の町並や
風情があの震災と空襲で焼けちまったことが、どうにも悔やまれてなりません。

蔦吉さんをはじめ、皆様、貴重な情報をありがとうございます。
たとえ地味でもいい。このスレが細く長く続くことを願います。

11 :昔の名無しで出ています:04/07/20 03:56 ID:???
すげーアカデミックなスレだ
とても2CHとは思えん

12 :昔の名無しで出ています:04/07/20 05:06 ID:???
ついに来たね、このスレ
いわゆるSP盤ってやつでしょ

13 :蔦吉:04/07/20 23:05 ID:???
私の持ってるLP−BOXに、はん子姐さんの情報が多少ございました。
割合有名ですが、参考までに。

神楽坂はん子
本名:鈴木田磨子(別の資料には玉子)

当時のコロムビアの営業・文芸部長伊藤正憲が、神楽坂の宴席に古賀政男・西條八十
両氏を招待した際に二人の前で「アリアン」を歌ったはん子という芸者がいた。
伊藤は京城コロムビアで長年セールスマン、古賀氏も幼少時、仁川で暮らしていた関係もあって
すっかり心を打たれた。
さっそく、古賀・西條の曲・詩で売り出そうと話が進んでいたが、その芸者の後見人の一人が
デビューに反対し、話は中断してしまった。
そのうちに「新土佐節」を神楽坂芸妓連がコロムビアで吹き込むことになり、
はん子が吹き込めないので、代わりに玉枝という芸者が吹き込むことに。
このテスト盤を聴いたはん子は号泣。
さすがに頑固な後見人も折れて、晴れて吹込所のマイク前に立つことができた。
初吹き込みは昭和27年7月。
この曲の名は「こんな私じゃなかったに」。タイトルは伊藤の発案である。
同名の映画が10月2日に公開。本人も特別出演(新東宝)した。

できれば美ち奴・市丸・勝太郎のデビューの話も知りたいのですが、ご存知の
方、おりませんでしょうか?

14 :昔の名無しで出ています:04/07/21 00:19 ID:eqP4gHTz
手元に資料が無いので、現段階では私の記憶の範囲でお答えを。

勝太郎は、25歳の時に新潟県新潟市より上京。
日本橋の葭町で芸者となるが、折からの芸者歌手ブームでその美声を
買われ翌年にはレコードデビューする。
デビュー当時は現役の葭町芸者だったため初期の芸名が「葭町勝太郎」
となっている。
昭和7年の暮れに出した『島の娘』が大ヒットし、続く昭和8年の『東京
音頭』(三島一声とのデュエットで、元は丸の内音頭のリメイク)のブレイク
により人気を不動のものとする。
その外『さくら音頭』などの一連のハァ小唄のヒットでブームを巻き起こし
昭和9年には芸者を廃業し、葭町を除籍。その後は同じく芸者出身でビクター
所属の市丸と共に市勝時代と呼ばれる黄金期を築いたが、二人の不和はつと
に有名であるが、実際は良きライバルといったところで、勝太郎の病床に
市丸が見舞い「あんたが元気にならないと、私も張り合う相手がいない」と
励ましたという。
戦時中は料亭の「田川」を経営、市村羽左衛門と浮名を流し、『明日はお立
ちか』等のヒットも飛ばす。
また、戦後は戦地慰問で倒れた際に「胸を見られた」軍医、真野博士と結婚。
結婚後も歌手として活躍し続け、初期の紅白に出場。
昭和46年に紫綬褒章、49年に勲四等宝冠章を受章。
たいへんな馬好きで、中央競馬に自分の競走馬も持っていたとのこと。


15 :昔の名無しで出ています:04/07/22 22:57 ID:???
小唄勝太郎…馬好きとは意外

16 :さくらたん ◆VCSAKURAe. :04/07/23 22:20 ID:???
さくら音頭ですか・・・

17 :中年:04/07/25 00:01 ID:RhQLixcX
市丸さんは、長野県松本市出身。本名、後藤満津枝。
浅間温泉で芸者をしているところを、スカウトされたらしい。
このあたりまでは、ネット検索でわかる。
デビューの詳細は、私にはわからず。
最大のヒット曲は、「天龍下れば」かな。
3年前、中山晋平記念館でCDを購入、ようやく聞くことが出来た。


18 :昔の名無しで出ています:04/07/25 12:53 ID:sdN6qQjO
市丸姐さんは上京して浅草から芸者に出ていた。
その頃から清元・宮薗・小唄(春日)を勉強していた。
折からの芸者歌手ブームでビクターからスカウトされ
「花嫁東京」でデビュー。
デビュー当時のレコードなどでは「浅草市丸」という
クレジットも見受けられる。
後に「ちゃっきり節」「天竜下れば」の新民謡がヒットし
スター歌手となる。ちなみにちゃっきり節は市丸姐さんの
オリジナルではなく、昭和3年に地元静岡の芸者衆によって
発売されたもののカヴァー。
戦後の「三味線ブギウギ」がヒットしたが、市丸の芸能界での
育ての親と自他共に認めていた中山晋平は「市丸にあんな歌を
歌わせることはないじゃないか!」とビクターに抗議した。
しかし当の市丸は時代の流れに敏感に対応し、わずか3分の
「三味線ブギウギ」のために西川流家元西川鯉三郎に振り付け
を依頼し、舞台で艶やかに歌い踊った。

19 :つづき:04/07/25 12:58 ID:sdN6qQjO
後に古典邦楽の世界へ帰り、小唄・端唄などの伝承に努める。
中村勘三郎預かりになっていた江戸小歌中村派の家元を17代目
として継承。江戸小歌市丸と名乗る。ちなみに「江戸小唄」では
なく「江戸小歌」が正しい。
テレビがカラー放送になってからはカラー放送に対応できるよう
着物の色柄、カメラワークにまで徹底的にこだわり研究を重ねて
いたという。
ちなみに小唄勝太郎との軋轢が度々話題になるが、実際は芸の
上での良きライバルという関係であったという。
晩年病床にあった勝太郎を市丸が見舞い「あんたが元気無いと、
私にも張りが無い」と励ましたという。
市丸の自宅は料亭のような佇まいで、柳橋にあり、現在は
貸し出し用のギャラリーとして一般にも開放されている。
ちなみに現在の日本国憲法が発布された際には、その宣伝用に
「憲法音頭」という変り種のレコードも出している。
現在江戸小歌中村派の家元は、弟子であった市之輔が継承
している。

20 :6:04/07/25 13:16 ID:sdN6qQjO
>>6の訂正です。

美ち奴さんが晩年を過ごされたのは、千葉の老人ホームではなく
東京深川にあった特別養護老人ホーム「むつみ苑」でした。
50を過ぎて身体が弱り、生活も困窮していた美ち奴さんを救った
のはかつての女剣劇のスターで親友の、中野弘子さんでした。
若かりし頃、大看板だった美ち奴さんのおかげで中野弘子一座は
興行的にも随分助けられたようで、その恩を終生忘れることが
なかった中野さんは、関西で舞台を続けていたが、美ち奴さんの体調が
思わしくないことを知り、東京の美ち奴のアパートの隣部屋に
引越し、献身的に看病をしますが、病状が思わしくないので区役所に
掛け合い老人ホームへ一緒に入りました。
その後は老人ホームの優しいスタッフにいたわられ、毎年の
敬老会では美ち奴さんが歌い、中野が剣劇の立ち回りを披露すると
いう光景が見られたそうです。
平成8年5月の園の入園者誕生会で「ああそれなのに」を披露した
翌日に腸閉塞で入院、大腸がんの転移が進んでおり、同じ月の
29日に亡くなられました。
大親友の中野弘子さんも約2ヶ月後の8月3日、まさしく後を追う
ように亡くなられました。
>>9
美ち奴は昭和29年からある男性と暮らしていたそうですが、入籍は
していなかったと、本人が晩年に受けた取材で明らかにしています。
ただ、その男性はかなりの遊び人だったそうで、他の女性に産ませた
子どもを美ち奴に世話させたりしたそうで、6年後に別れたときは
肉体的にも精神的にもボロボロだったとのことです。
それから中野さんとの再会するまでの約10年間は想像を絶する
孤独な日々だったようで「もし中野さんが現れなかったら、
私はとうに死んでいた・・・」と美ち奴さん自身は繰り返し語って
おられたとのことです。


21 :昔の名無しで出ています:04/07/26 23:34 ID:???
>6様

美ち奴は壮絶な人生だったですね…。でも最後は中野さんに助けられて(涙)。
市丸姐さん、着物・カメラワークまで…本当に明治生まれなんですか?
やっぱり素晴らしい歌手です。
そういえば淡谷のり子さん、よく市丸姐さんのモノマネしていた…なんて話
美川憲一の安っぽい本に書いてあったのを立ち読みしたことがあります。
昔のほうが巧かったと妹さんに言われたとか(笑)。

22 :昔の名無しで出ています:04/07/27 00:53 ID:Idha6YHV
ちなみに市丸さんの妹が、いつも伴奏の三味線を弾いていた静子さん。
そのご主人が長唄三味線の中山小十郎さん。『獅子頭』に代表される
「市丸小唄シリーズ」の作曲はほとんど小十郎作曲。
静子さんは市丸さんよりも先に亡くなっている。晩年に市丸さんの会で
三味線を弾いてる姿を拝見し、若い頃と違って随分と痩せてたので
驚いたが、間もなく亡くなったように記憶してる。
静子さんは市丸さんを頼って上京し、俗曲・歌謡曲三味線の先駆者
三味線豊吉の薫陶も受け、オーケストラでの演奏でも抜群の力を発揮した。

23 :昔の名無しで出ています :04/07/27 21:02 ID:pfZXxKvx
みなさん大変お詳しいのでびっくりしております。
新橋喜代三さん、浅草〆香さん、日本橋きみ栄さんについて
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授いただけますでしょうか。


24 :昔の名無しで出ています:04/07/27 21:30 ID:SY032ppR
服部良一がまだニットーの専属だったころに、
美ち奴もニットー専属で、よく彼女のために
歌を作ったそうですね。
服部作曲の「ルンバ万才」っていう美ち奴の歌、カッコよすぎます!!

25 :昔の名無しで出ています:04/07/27 22:22 ID:8iUZPf90
新橋喜代三さんは、鹿児島県種子島の生まれ、台湾に移住した時期も
あるが、後に鹿児島へ戻り鹿児島市の鹿児島西検番から喜代治の名前で
大正5年にお披露目。
昭和6年鹿児島で産業博覧会が開かれる際に、今でいうCMソングを
作ろうという計画が持ち上がり、作者に西条八十と中山晋平が指名され
現地を見てもらうために鹿児島へ招かれる。
その接待の席に出たのが当時の喜代治。先輩芸者であった一八が得意とし、
喜代治も教わっていた「鹿児島おはら節」を披露したところ、作曲の
中山晋平がいたく気に入り、是非東京へ来るようにと勧める。
ちなみにその後作られたCMソングは「鹿児島小唄」というタイトルで
藤本二三吉が歌った。

26 :昔の名無しで出ています:04/07/27 22:32 ID:8iUZPf90
その後中山晋平の熱心な勧めにより上京。新橋から芸者に出るが
その際に芸名を喜代三に改める。
昭和8年(これには諸説ある)ポリドールから「鹿児島おはら節」を
発表する。おはら節に関しては中山晋平が編曲したというのが
通説ではあるが、実際のレコードには「編曲:山田栄一」という
クレジットがある。山田はポリドール専属で、東海林太郎のヒット
曲である「すみだ川」で知られる作・編曲家である。
実際に山田に話を聞くと「あれは喜代三さんと、当時新橋に
住んでいた豊吉姐さん(三味線豊吉・元新橋芸者)と私の合作です」
と証言してくれました。中山はビクターの専属であり、以前西条に
コロムビアへの移籍を勧められた時も「私は食えない時代から
ビクターにお世話になり今日の地位がある。その恩を仇で返す
わけにはいかない」と断った経緯があり、昭和3年から亡くなる
昭和27年まで生涯ビクターの専属であったことからすると
ポリドールの喜代三の編曲を手がけるというのは無理がある。

27 :昔の名無しで出ています:04/07/27 22:45 ID:8iUZPf90
ただ、この「編曲」という言葉がクセモノで、オーケストラ用に
アレンジしたことを編曲とすれば山田説が正しく、田舎歌である
民謡を全国的に普及するために形を整えたというのなら、新民謡
運動の旗手であった中山説も納得できる。またポリドール専属に
なる以前、上京してすぐの昭和6年に喜代治の名前でビクターから
レコードを出し、その後昭和9年にポリドールの専属となり再度
おはら節を出したとする資料もあり、真相は不明である。

その後「明治一代女」「酋長の娘」などのヒットにも恵まれ
一躍スター歌手となるが、昭和10年に妻を亡くした中山と
昭和11年に結婚、後妻となり引退。
西条八十曰く「中山さんが喜代三さんを一目惚れしてたのは
気づいてましたよ」とのこと。
昭和27年に中山が死去してから芸能界に復帰、本名の中山嘉子で
ラジオ出演なども行っていたが、昭和38年3月2日に肝臓ガンの
ため59歳で没した。ちなみに彼女の本名を今村タネとする資料も
あり、もしかすると改名をしている可能性もある。

28 :昔の名無しで出ています:04/07/27 22:51 ID:8iUZPf90
訂正

喜代三の芸者時代の経歴については、最初から喜代治という
名前ではなく、13歳で鹿児島西検番から八重子の名前で出て
いたようで、家が貧しいゆえの選択であったようだ。
しかし芸者時代にも借金がかさみ、台湾の台南市に鞍替え、
蔦奴と名乗った。
このとき若き写真家・木村伊兵衛と大恋愛。しかし木村にも
金がなく、結局別れたということである。


29 :昔の名無しで出ています:04/07/27 22:54 ID:8iUZPf90
その後鹿児島に戻り、喜代治となって再度鹿児島西検番から
出ている。
ちなみに彼女の生年月日は明治36年10月12日である。

30 :昔の名無しで出ています :04/07/28 22:40 ID:AbT3jz7K
関係者の方に直接お話をお聞きになっていらっしゃるんですね。
また驚きです。どうも大変ご丁寧にありがとうございました。
喜代三さんの写真を拝見するとお美しいですものね。
喜代三さんは、大河内傳次郎主演の映画「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」
という作品に、お藤役でご出演されておりましたね。

31 :昔の名無しで出ています:04/09/03 06:17 ID:o/U1bM5Q
良スレあげ

32 :昔の名無しで出ています:04/09/24 20:51:36 ID:Ch6QzvzL
名歌手ばかり。埋もれさせるのはもったいない。
スレも。

33 :昔の名無しで出ています:04/11/17 02:17:38 ID:GuMn7fBg
age

34 :昔の名無しで出ています:04/11/29 18:08:32 ID:pKsJDXJi
age

35 :昔の名無しで出ています:04/12/28 07:06:39 ID:???
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